新横浜駅を出発して間もなく、隣のB席に座ったサラリーマンが突然立ち上がった。
そして何も言わず、汗で湿ったジャケットを私のA席前のフックに掛けた。
上着は私の顔のすぐ横まで垂れ下がり、強い汗の臭いが漂ってくる。
私は仕事の都合で、東京と新大阪を週1〜2回、10年以上往復している。
だが、こんな乗客に出会ったのは初めてだった。
「すみません。
ここは私の席の前なので、そちらへ移していただけますか」
できるだけ冷静に伝えた。
しかし男はスマートフォンから目も上げず、
「上着くらい別にいいでしょ。減るものじゃないし」
と鼻で笑った。
「一言もなく、他人の席を使うのは困ります」
そう言っても、男は動かない。
さらに私の足元を見て、
「細かいなあ。新幹線に慣れてないんですか?」
とまで言い出した。
さすがに腹が立ったが、私は言い返さなかった。
車内の状況と座席番号が分かるように写真を撮り、乗務員を呼んだ。
乗務員は事情を確認すると、男に上着を移すよう丁寧に求めた。
ところが男は、
「会社員は移動中も仕事なんですよ。こんなことで邪魔しないでください」
と不機嫌そうに言い放った。
その瞬間、通路を挟んだ席に座っていた年配の男性が、新聞を静かに畳んだ。
そして男のジャケットの襟元を見つめた。
そこには、ある大手企業の社章が光っていた。
年配の男性は立ち上がり、サラリーマンの前に名刺を置いた。
名刺を見た男の指が止まった。
顔から血の気が引き、慌てて姿勢を正す。
「まさか、どうしてこちらに……」
年配の男性は、その会社の取引先で役員を務める人物だった。
しかも翌日、男が出席する重要な商談の責任者だという。
「移動中も仕事だと言いましたね」
低い声が車内に響いた。
「では、今の態度も御社を代表した仕事中の振る舞いとして、記録してよろしいですね」
男は青ざめ、慌ててジャケットを外した。
「すみません、そんなつもりでは……」
「相手によって態度を変える人は、商談の席でも信用できません」
年配の男性はそう告げ、スマートフォンで誰かに連絡を入れた。
数分後、男の携帯電話が鳴り始めた。
画面に表示された名前を見た瞬間、男の手が震えた。
私は何も言わず、自分の席の前が元どおりになったことだけを確認した。
翌朝、その会社から私宛てに正式な謝罪が届いた。
人の席を勝手に使ったことよりも、注意された後の態度が問題だったらしい。
社章を身につけるということは、会社の看板を背負うということだ。
新幹線の小さなマナー違反が、自分自身の信用まで失わせるとは、あの男も想像していなかったのだろう。