群馬の山あいにある「山の湯・花月荘」。
創業78年になる、古い温泉旅館だった。
若女将の篠原春奈は、父が倒れたのをきっかけに東京から戻り、旅館を継いだ。
父が亡くなってから5年。
春奈は毎朝6時15分に廊下を歩き、温泉や客室を確認し、父と同じように厨房にも立った。
しかし経営は厳しかった。
全8室のうち、土曜日でも埋まるのは3室ほど。
Wi-Fiもなく、オンライン予約にも十分対応できていない。
銀行への返済猶予も、残り3か月になっていた。
そんな中、ある会社から社員旅行50名の予約が入った。
春奈にとっては、旅館を立て直す大きな機会だった。
ところが宿泊日の直前。
担当課長の伊達から電話が入った。
「50名、全部キャンセルで」
理由は設備だった。
「Wi-Fiもないし、部屋も狭い」
春奈が規定のキャンセル料を説明すると、伊達の態度はさらに冷たくなった。
「そんな融通の利かない旅館なんですか?」
そして最後には、
「いつまでこんな旅館を続けるつもりなんですか?」
「地元の恥じゃないですか」
「こんなボロ旅館に泊まれるわけないでしょう」
そう言って、一方的に電話を切った。
春奈は受話器を乱暴に置かなかった。
元の場所へ、静かに戻した。
だが50名分のキャンセルで、黒字化の計画は崩れた。
銀行からは追加担保を求められ、不動産会社からは旅館の土地を売らないかと持ちかけられた。
それでも春奈は売却を断った。
「この旅館は俺たちのものじゃない」
生前、父はそう言っていた。
その言葉の意味を、春奈はまだ完全には理解できていなかった。
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