日村淳、29歳。
文章を書く仕事をしている私は、出張の移動時間も大切な仕事時間の一つだと思っている。
その日も九州への出張があり、新幹線の最前列窓側の指定席を予約していた。
コンセントが使いやすく、長時間の作業にも向いているからだ。
乗車した時、隣の席はまだ空いていた。
「今日は少し仕事を進められそうだ」
そう思ってパソコンを開いた。
しかし、途中駅から乗ってきた女性が私の隣に座った直後、突然声をかけてきた。
「その席、変わってもらえませんか?」
理由を聞くと、友人と横並びの席が取れなかったらしい。
「後ろの席に移動してもらえませんか?」
悪いお願いではある。
でも、私は仕事をするために指定席を選んでいた。
「すみません。この席で仕事をしたいので」
丁寧に断った。
すると女性は不満そうな顔をした。
隣にいた友人は謝ってくれたが、その後も小さな嫌味は続いた。
「平日に旅行できる人っていいよね」
「どうせ普通の会社員でしょ」
聞こえるように言われても、私は反応しなかった。
せっかくの出張を、この人のために台無しにしたくなかったからだ。
九州に到着後、私は温泉旅館で気持ちを切り替えた。
翌日の仕事も順調に進み、その時の出来事は忘れかけていた。
それから数か月後。
私はある映画関連の仕事で、出演者オーディションに関わることになった。
そこで、思いがけない再会があった。
会場にいた女性。
あの新幹線で隣の席だった人物だった。
彼女は私に気づき、明らかに動揺していた。
しかし、その時の私は立場で人を見るつもりはなかった。
ただ一つ伝えた。
「誰に対しても、相手を尊重することは大切だと思います」
その後、彼女は不合格となった。
一方で、九州で出会ったもう一人の女性、桜井さんは違った。
新幹線で迷惑をかけたことを何度も謝り、仕事先でも周囲への気遣いを忘れなかった。
その姿勢と演技力が評価され、後に大きな仕事につながっていった。
人は、誰かに見られている時だけ良く振る舞えばいいわけではない。
立場が違う相手にも、同じように接することができるか。
何気ない一言や態度が、いつか自分自身に返ってくることもあるのだと思う。