営業部の慰安旅行。北海道行きの航空券を確認する段になって、田辺部長はわざとらしくスマホを見せびらかしながら笑った。
「悪いな、尾崎。お前の分、存在忘れてたわ」
その瞬間、周囲の社員たちが一斉に吹き出した。俺が残業を重ねて宿も航空券も手配した旅行だ。それなのに、最後の予約だけを「俺がやる」と奪った部長は、最初から俺を置き去りにするつもりだったのだ。
「席はない。先に帰れ」
悔しさで喉が詰まった。だが俺は、ただ一言だけ返した。
「了解です」
そのまま旅行鞄を引き、空港を出た。帰りの電車の中で、俺は一通のメールを送った。相手は三浦会長。今回、現地で営業部と合流する予定だった人物だ。
俺、尾崎宗一は四十代の平社員に見える。経理、商品企画、生産管理、マーケティング、そして営業部。何度も部署を異動してきたせいで、田辺部長には「どこにも居場所のないお荷物」と決めつけられていた。
だが、その異動はすべて三浦会長の指示だった。若い頃、昼休みに財務諸表を読み込み、会社全体を理解したいと話した俺を、会長はずっと見ていた。現場を知り、数字を知り、商品を知り、人を知る。
そのために、俺は二十年近く会社中を歩かされてきたのだ。
そして次に進む予定だった場所は、経営企画室。さらにその先には、会長が決めた役目があった。
数時間後、電話が鳴った。
「尾崎、お前は今どこにいる」
三浦会長の声は低かった。俺が事情を説明すると、向こう側で短い沈黙が落ちた。
現地では、上機嫌の田辺部長が会長に挨拶していたらしい。
すると会長は周囲を見渡し、静かに尋ねた。
「二代目社長の姿がないようだが?」
田辺部長は笑顔のまま固まった。
「え……社長、ですか?」
「尾崎君のことだ。私が次の社長にすると決めている」
その場の空気は凍りついたという。田辺部長は慌てて「尾崎が自分の航空券を取り忘れたようで」と言い訳したが、会長は一歩も引かなかった。
「彼がそんな初歩的なミスをするとは思えない。
誰が予約を確定した?」
誰も笑わなかった。
翌週、田辺部長の処分が発表された。過去の嫌がらせや退職者への圧力も調査され、営業部は大きく変わることになった。
俺は会長室に呼ばれた。
「辛かったな。だが、お前が黙って耐えた時間は無駄ではない。人の痛みを知る者でなければ、人の上には立てない」
その言葉を聞いた瞬間、幼い日に祖母と食べた甘じょっぱい煎餅の味を思い出した。人に優しくありたい。真面目に働きたい。あの日の小さな願いが、長い遠回りの末に、ようやく形になろうとしていた。
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=pMIPta9vgvY,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]