「私のチケットを使ってください」
そう言った瞬間、自分の15年間を手放したような気がした。
私は市川水希。
明日の午前10時、ブリュッセルのラモネ劇場で行われるオーディションを受ける予定だった。
憧れの歌手、マリア・カレンの伴奏者を選ぶ大切な機会。
15年間、毎日8時間以上ピアノを練習した。
アルバイト代も、楽譜やレッスンに使った。
本当ならもっと早く現地へ向かうはずだった。
だが前日、母が突然倒れた。
容体が安定するまで付き添ったため、取れたのは夜の最終便だけだった。
そこで出会ったのが、1人の老人だった。
「50年連れ添った妻が危篤なんです」
今夜の便は満席。
翌朝では、妻の最期に間に合わないかもしれないという。
私はチケットを握った。
これを渡したら、私の夢も終わる。
それでも母が倒れた時の恐怖を知っていた私は、その人を見捨てられなかった。
「私は大丈夫です」
嘘だった。
翌朝の便がブリュッセルへ着いたのは10時15分。
劇場に到着した時には、すでに10時45分だった。
受付の女性は時計を見て言った。
「時間通りに来られない人に、プロの世界は無理だと思います」
入場すら許されなかった。
私は外のベンチに座った。
15年間、何のために頑張ってきたのだろう。
あの老人を助けなければよかったのか。
そんな考えさえ浮かんだ。
その時だった。
黒塗りの高級車が次々と劇場前に入ってきた。
全部で5台。
黒いスーツ姿の男たちが降り、最後の車から見覚えのある老人が現れた。
昨夜の人だった。
「あなたのおかげで、妻の最期に間に合いました」
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