「今日のお菓子、素敵ですね」
佐藤花が小声で話しかけた瞬間、部長夫人の伊藤しず子が近づいてきた。そして、手にしたコーヒーカップをゆっくりと傾けた。熱いコーヒーが、花の白いブラウスの刺繍を茶色く染めていく。
「あら、手が滑ってしまったわ」
悪びれる様子はない。むしろ楽しんでいるようだった。
「平社員の奥さんらしい格好というものがあるでしょう。この会にあなたの居場所はないのよ」
そのブラウスは、亡き母が花に教えた手縫いの刺繍が入った、何より大切な一着だった。花は唇を噛み、静かに立ち上がった。「失礼します」それだけ言って部屋を出た。
花の夫・たけしは現場で働く平社員。しず子はこの社宅の夫人会を10年以上仕切ってきた女王だった。花はそれからも嫌がらせに黙って耐えた。挨拶を返されなくなり、共用部の掃除当番だけ週3回に増やされても、静かにこなした。
しかしある夜、たけしが暗い顔で帰ってきた。
「今日、伊藤部長に呼ばれた。お前の嫁が夫人会を乱している、明日までに謝りに行かせろ。さもないとお前の席はもうないぞと」
たけしの節くれだった手が、かすかに震えていた。花の中で何かが変わった。
「謝りに行かなくていい」
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