「この店は完全予約制です。ご予約のないお客様はお引き取りください」
神戸の高級レストランの入口で、支配人は丁寧だが冷たい声で老夫人を追い返そうとしていた。老夫人は困惑したまま動けず、何かを伝えようと口元を懸命に動かしている。だが言葉は出てこなかった。
その様子をホールの奥から見ていた白井美織は、はっとした。
あの人は話さないんじゃない、耳が聞こえないんだ。気づけば体は自然に動いていた。手話で問いかける。
「どなたかとお待ち合わせでしょうか」
老夫人の表情がぱっと明るくなった。目に涙が浮かぶ。
美織は神戸の高級レストランでアルバイトをしていた。両親はもういない。ずっと前に事故で亡くしている。両親とも耳が聞こえず、家では手話が言葉だった。頼れる親族も多くなく、大学に通いながら学費と生活費をすべて自分で稼いでいた。目立たず、誰よりも早く出勤し、黙々と準備をする。それが美織の日常だった。
美織は老夫人を、先に案内されていた老紳士の席へ案内した。
老夫人の姿を見た瞬間、老紳士の表情がはっきりと変わる。老夫人は手話で「迷ってしまったの。でもこの方が助けてくれた」と伝えた。老紳士は美織に静かに視線を向け、深く頭を下げた。「ありがとうございます」
食事の間、老紳士は料理よりも美織の所作を見ていた。声をかける距離、老夫人の視界に入る位置。生活の中で自然に身についた動きだと、彼は直感していた。
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