その日は出張帰りで、正直もうくたくただった。
翌日も仕事がある。とにかく早く帰って、シャワーを浴びて、少しでも眠りたかった。だから私は、迷わず新幹線の指定席を取っていた。車内で読むつもりの資料と、駅で買った飲み物を手に、自分の席へ向かった時だった。
そこに、見知らぬ親子が座っていた。
「あの、そこ私の席なんですが」
そう声をかけると、母親は少しも悪びれず、ちらりと私を見て言った。
「子ども連れなんだけど。譲ってくれてもいいでしょ?」
一瞬、耳を疑った。私は仕事帰りで、自分でお金を払ってこの席を取っている。しかも相手は、間違えたのではなく、空いていない自由席の代わりに当然のように座っているらしい。
「ここは私が買った席です。申し訳ありませんが、移ってください」
そう伝えても、母親は「少し融通を利かせればいいのに」「子どもの前で冷たいわね」と不満をぶつけてくる。話が通じない。そう思った時、車掌さんが来てくれた。
ところが、その場の空気を変えたのは母親ではなく、隣にいた子どもだった。
「お母さん、ぼくたちが悪いよ。お姉さんの席なんだから、ちゃんと返さないとだめだよ」
その一言に、私は言い返す言葉を失った。大人が意地を張り、子どもが恥ずかしそうに頭を下げている。その光景があまりにも皮肉だったからだ。
結局、母親はぶつぶつ文句を言いながら移動した。残った子どもは、もう一度私に「ごめんなさい」と言ってくれた。私は思わず笑ってしまい、「あなたはちゃんとしてるね」と返した。
その後、子どもは新幹線が好きだと話してくれた。
短い時間だったけれど、そのやり取りに、さっきまでの苛立ちは少しずつほどけていった。
親の態度は、言葉より先に子どもに伝わる。
でも同時に、子どもはちゃんと見ているのだとも思った。あの子が母親と同じにならなかったのは、きっとどこかで「それは違う」と自分で感じ取っていたからだろう。
疲れ切った帰り道で最後に心に残ったのは、横柄な母親の顔ではなく、きちんと謝れたあの子のまっすぐな声だった。