新幹線の座席で、まさかこんなことが起きるとは思わなかった。
その日は仕事の用事で新幹線に乗っていた。
指定席を取り、やっと座れたと思った瞬間だった。
「ん?」
右側の肩あたりに、何かが触れる感覚があった。
最初は自分の荷物が当たっているのかと思った。
でも違った。
後ろの座席から、黒い上着が前に垂れ下がっていた。
しかも、私の座席の横まで完全に入り込んでいる。
「え……これって普通なの?」
思わず振り返った。
すると、後ろの人は何事もなかったようにスマホを見ている。
まるで、自分の上着が前の席にかかっていることに気づいていない様子だった。
もちろん、新幹線の座席は限られたスペースだ。
多少の荷物や服が触れることはある。
でも、座席の背もたれを越えて、前の人のスペースにまで入り込むほど上着を掛けるとは思わなかった。
私は最初、注意しようか迷った。
「すみません、上着が当たっているみたいです」
そう言えば済む話なのかもしれない。
でも、相手がどんな反応をするか分からない。
最近は少しの指摘でもトラブルになることがある。
私はすぐに怒ることはせず、まず写真を撮った。
後から「そんなことしていない」と言われても困るからだ。
新幹線の中は静かだった。
周りの乗客も、それぞれスマホを見たり、寝たりしている。
そんな中で、私だけが小さな違和感と戦っていた。
しばらくすると、後ろの人が荷物を動かした。
その時、ようやく自分の上着が前の座席まで入り込んでいたことに気づいたらしい。
「あっ……」
小さな声が聞こえた。
そして慌てて上着を引っ込めた。
特に謝罪の言葉はなかった。
でも、私は少し考えた。
もしかしたら本人は、本当に気づいていなかったのかもしれない。
新幹線のような狭い空間では、誰もが少しずつ周囲への配慮を忘れてしまう瞬間がある。
ただ、自分が快適に過ごすために、知らない誰かのスペースを使ってしまうことは避けたい。
座席の背もたれは、自分の領域。
でも、その向こうには別の人が座っている。
今回の出来事は大きなトラブルにはならなかった。
けれど、改めて思った。
「自分にとって普通」が、隣の人にとっては迷惑になっていることもある。
新幹線は多くの人が利用する場所。
少しだけ周りを見るだけで、誰も嫌な思いをしなくて済む。
たった1枚の上着。
でも、その扱い方ひとつで、人への気遣いが見える気がした。