「別れてくれ」
結婚二十年目の夜、食卓に置かれたのは離婚届だった。
「悪いが、すぐに出ていってほしい。五十にもなって、テーブルで突っ伏して泣くような人間とは一緒にいたくない」
淡々と、まるで天気の話でもするかのような口調。私は言葉を失い、足元に転がっていた懐中時計をとっさに握りしめた。母の形見だ。父が舞台でいつもベストのポケットに忍ばせていた、大切な時計。
私は深沢里美、五十歳。スーパーでパートとして働く、ごく平凡な主婦だ。三歳年上の夫・浩介と、郊外の分譲マンションで二人暮らしをしてきた。静かで穏やかな日々。それが、私の望んだ人生だった。
父は漫談師だった。芸名は「小岡十字」。テレビに出るような派手な芸人ではなかったが、劇場では通を唸らせる存在だった。家でもよく笑い、よくしゃべり、時に大声で怒鳴る破天荒な人だった。母は看護師として家計を支え、父の舞台衣装や小物を丁寧に手入れしていた。その中の一つが、この懐中時計だ。
「形あるものはいつか崩れる。でも大事にすれば、それはお前を守る」
父の言葉が、今になって胸に蘇る。
浩介とはクリーニング工場で出会った。
無口で誠実。私が上司のミスをなすりつけられたとき、静かにかばってくれた。その横顔に恋をした。結婚し、子どもには恵まれなかったが、「二人で生きていこう」と誓い合ったはずだった。
だが二週間前、味噌汁の具をきっかけに、彼は豹変した。
「子どもがいないのは、君が消極的だったからだろ」
二十年前の話を、まるで私一人の責任のように言い放った。
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=pjBVvrdO5sQ&pp=0gcJCaIKAYcqIYzv,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]