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定年退職した夫が突然「一人で家を出て、絵を描いて暮らしたい」と言い出した。屋根裏で見つけた古いスケッチブックが、四十年前に諦めた夢を静かに物語っていた
2026/08/19

「しばらく、一人で暮らしたいんだ」

定年退職した夫が、ある夜そう切り出した。

行き先は、亡くなった夫の父が残した、山あいの古い家だという。理由を聞いても、はっきりとは答えなかった。

「絵を、描きたくてね」

結婚して三十五年、夫が絵を描く姿など見たことがなかった。仕事一筋の人で、休日もほとんど家で過ごしていた。

正直、浮気を疑ったこともあった。

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定年後、急に様子が変わる夫の話は、友人からもよく聞いていたからだ。でも、夫の様子はどこかそれとは違って見えた。むしろ、迷子になった子どものような顔をしていた。夜、寝室の電気を消したあとも、何かを考え込んでいる気配が伝わってきた。

荷造りを手伝っていたとき、屋根裏の奥から古い木箱が出てきた。

開けると、色あせたスケッチブックが何冊も入っていた。どれも、若い頃の夫の字で日付が書かれていた。一番古いものは、四十年以上前の日付だった。

ページをめくると、細やかな鉛筆画が並んでいた。近所の風景、飼っていた犬、若い頃の友人たち。どのページも、消しゴムで何度も描き直した跡があり、その丁寧さに、私は言葉を失った。

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「これ、あなたが描いたの」

夫は少し気まずそうに頷いた。

「高校生の頃、美術の先生に勧められて、美大を受けようと思ってたんだ」

でも、夫の父は猛反対したという。絵で食べていけるはずがない、まともに就職しろと言われ、夫は結局、地元の企業に就職する道を選んだ。

「悔しくて、二度と絵は描かないって決めたんだ。それなのに、この年になって、まだ描きたい気持ちが消えてなかったなんてな」

夫はそう言って、力なく笑った。

私は、三十五年間一緒にいながら、夫がそんな夢を抱えたまま生きてきたことを、まったく知らなかった。仕事の話、家族の話、たくさん話してきたつもりだったのに。

「一人で行かなくていいよ」

私は思わずそう言っていた。

「一緒に行く。私も、その家で何か新しいことを始めてみたい」

夫は驚いた顔をしたあと、久しぶりに、屈託のない笑みを見せた。

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数か月後、私たちはその古い家に引っ越した。夫は毎朝、縁側でスケッチブックを広げている。最初は硬かった線も、日を追うごとに柔らかくなっていった。私は近所で見つけた陶芸教室に通い始めた。

先日、夫が描いた庭の絵を見せてくれた。四十年前のスケッチと同じ構図だった。「やっと、続きが描けた気がする」と、夫は照れくさそうに言った。

定年後の暮らしは、思っていたよりずっと静かで、そしてずっと豊かだった。四十年越しの夢を取り戻した夫の横顔を見るたび、これからの時間を大切にしたいと思う。

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