「しばらく、一人で暮らしたいんだ」
定年退職した夫が、ある夜そう切り出した。
行き先は、亡くなった夫の父が残した、山あいの古い家だという。理由を聞いても、はっきりとは答えなかった。
「絵を、描きたくてね」
結婚して三十五年、夫が絵を描く姿など見たことがなかった。仕事一筋の人で、休日もほとんど家で過ごしていた。
正直、浮気を疑ったこともあった。
定年後、急に様子が変わる夫の話は、友人からもよく聞いていたからだ。でも、夫の様子はどこかそれとは違って見えた。むしろ、迷子になった子どものような顔をしていた。夜、寝室の電気を消したあとも、何かを考え込んでいる気配が伝わってきた。
荷造りを手伝っていたとき、屋根裏の奥から古い木箱が出てきた。
開けると、色あせたスケッチブックが何冊も入っていた。どれも、若い頃の夫の字で日付が書かれていた。一番古いものは、四十年以上前の日付だった。
ページをめくると、細やかな鉛筆画が並んでいた。近所の風景、飼っていた犬、若い頃の友人たち。どのページも、消しゴムで何度も描き直した跡があり、その丁寧さに、私は言葉を失った。
「これ、あなたが描いたの」
夫は少し気まずそうに頷いた。
「高校生の頃、美術の先生に勧められて、美大を受けようと思ってたんだ」
でも、夫の父は猛反対したという。絵で食べていけるはずがない、まともに就職しろと言われ、夫は結局、地元の企業に就職する道を選んだ。
「悔しくて、二度と絵は描かないって決めたんだ。それなのに、この年になって、まだ描きたい気持ちが消えてなかったなんてな」
夫はそう言って、力なく笑った。
私は、三十五年間一緒にいながら、夫がそんな夢を抱えたまま生きてきたことを、まったく知らなかった。仕事の話、家族の話、たくさん話してきたつもりだったのに。
「一人で行かなくていいよ」
私は思わずそう言っていた。
「一緒に行く。私も、その家で何か新しいことを始めてみたい」
夫は驚いた顔をしたあと、久しぶりに、屈託のない笑みを見せた。
数か月後、私たちはその古い家に引っ越した。夫は毎朝、縁側でスケッチブックを広げている。最初は硬かった線も、日を追うごとに柔らかくなっていった。私は近所で見つけた陶芸教室に通い始めた。
先日、夫が描いた庭の絵を見せてくれた。四十年前のスケッチと同じ構図だった。「やっと、続きが描けた気がする」と、夫は照れくさそうに言った。
定年後の暮らしは、思っていたよりずっと静かで、そしてずっと豊かだった。四十年越しの夢を取り戻した夫の横顔を見るたび、これからの時間を大切にしたいと思う。