「私の車、何か動いてる……」
昼休み、駐車場へ出た私は、その場で足を止めた。
赤い車のドアミラーが見えない。
代わりに、茶色い大きな塊が張りつき、その周囲を無数のミツバチが飛び回っていた。
数十匹どころではない。
近づくほど羽音が大きくなり、ドアにも窓にも蜂が広がっていた。
私は慌てて車へ戻ろうとせず、10メートルほど離れた場所から写真を撮った。
すると後ろから来た同僚が笑った。
「殺虫剤をかければ終わりでしょ」
敷地内のホームセンターにも相談すると、店員が駆除用のスプレーを持ってきた。
だが、車の周囲には買い物客もいる。
刺激して一斉に飛び回れば、誰かが刺されるかもしれない。
私は、
「専門家に確認できるまで、噴射しないでください」
と頼み、カラーコーンで周囲を立入禁止にしてもらった。
業者が来られるのは夕方。
それまで待つしかないと思ったとき、投稿した写真を見た養蜂家から連絡が届いた。
「殺さないでください。これは巣ではなく、女王蜂を中心に休んでいる群れの可能性があります」
私はすぐ、そのメッセージと撮影時刻入りの写真を責任者へ見せた。
しかし同僚はまだ不満そうだった。
「蜂なんて危ないんだから、全部駆除すればいい」
その直後、現場へ来た養蜂家が車を見るなり言った。
「今ここで殺虫剤を使えば、群れが散って駐車場全体に広がります」
同僚の手から、スプレーが静かに下ろされた。
養蜂家は防護服を着て、蜂を刺激しないよう専用の箱を車のそばへ置いた。
その中へ女王蜂を誘導すると、不思議なことに、周囲を飛んでいた蜂たちも次々と箱へ集まり始めた。
約40分後。
ドアミラーを覆っていた黒い塊は消え、数千匹の蜂は安全に回収された。
車にも傷はなく、刺された人もいなかった。
養蜂家は箱を持ち上げながら、笑顔で言った。
「この群れは新しい場所で飼育します。大切に育てますよ」
先ほどまで殺虫剤を勧めていた同僚は、気まずそうに私を見た。
「止めてくれてよかった。俺が噴射していたら、大変なことになってたな」
私は責める代わりに、ただうなずいた。
怖いものを見たとき、すぐ排除したくなる気持ちは分かる。
けれど、知識のないまま動けば、人にも生き物にも危険が及ぶ。
その日、私が車に乗れたのは予定より2時間遅い夕方だった。
それでもエンジンをかけた瞬間、腹立たしさはなかった。
急がず、触らず、専門家へつないだ。
たったそれだけで、誰も傷つかず、数千の命まで守れたのだから。