私は中川和恵、七十歳。夫を亡くしてから、静かな一人暮らしを続けてきた。朝は窓を開け、季節の匂いを感じながら小さな庭の植物を眺める。味噌汁と炊きたてのご飯を用意し、時には地域の子ども食堂を手伝う。誰にも迷惑をかけず、誰かの役に立てることが、私にとって幸せな毎日だった。
そんな暮らしが変わったのは、娘の茜から突然電話がかかってきた春の日だった。
「お母さん、一緒に住める家を建てようと思うの。お母さんの部屋もちゃんと作るから」
その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなった。夫を亡くしてから距離ができていた娘が、もう一度私を家族として迎えてくれる。そう信じて疑わなかった。
しかし、家を建てるためのお金が問題になった。
「今はローンが難しくて……最初だけお願いできないかな」
茜と婿の直人は申し訳なさそうに頭を下げた。私は長年働いて貯めたお金と夫の遺産を合わせ、土地代一千二百万円、建築費一千八百万円、合計三千万円を出すことにした。
「名義はお母さんにするから安心して」
その言葉と、孫の「おばあちゃんと暮らせるの楽しみ」という笑顔が、私の背中を押した。
新しい家が完成した日、私は幸せの絶頂にいた。白い外壁、木目の扉、私のために用意されるはずだった部屋。けれど玄関に掛けられた表札を見た瞬間、胸に冷たいものが走った。
そこには「木下」という名字だけがあった。
私の名字、中川の文字はどこにもなかった。
「表札って世帯名だから気にしなくていいよ」
直人は軽く笑った。
三千万円を出した家なのに、私は最初から存在しない人間のように扱われた。
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=3C0zQn0V7vs,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]