ASDのある10歳の娘は、ほとんど学校へ行けていない。
教室に入ると大勢の話し声や椅子を引く音が一度に耳へ届き、体が動かなくなってしまう。誰かに話しかけられても、言葉が頭の中で絡まり、返事ができない。
「おはよう」の一言さえ出せず、泣きながら帰った日もあった。
そんな娘の机には、真新しいシール帳がある。
流行のシール交換をしてみたいと言うので買ったものだ。
しかし、どのページを開いても真っ白だった。
ただ1か所を除いて。
そこには、小さなボンドロシールが1枚だけ貼られている。
それは、娘が学校で唯一話せる同級生の女の子からもらったものだった。
その子は無理に返事を求めない。
娘が黙っている日は、少し離れた席で絵を描いて待ってくれる。話せそうな日には、「今日は猫と犬、どっちが好き?」と答えやすい質問をしてくれる。
ある日、娘は別室登校に挑戦した。
ところが廊下で数人の児童とすれ違った瞬間、立ち尽くしてしまった。
「どうしてしゃべらないの?」
「無視してるの?」
そんな声が聞こえ、娘の手が震え始めた。
すると、その女の子が前に立った。
「無視じゃないよ。
話せるまで時間が必要なんだよ」
そう言って娘を別室まで連れていき、帰り際にシールを1枚差し出した。
「今日はここまで来られた記念」
娘は声を出せなかった。
それでも両手で大切に受け取り、家に帰るとシール帳の最初のページへゆっくり貼った。
翌朝、私は娘が机に向かっている姿を見つけた。
小さな紙に何度も文字を書いては消している。
そこには、「ありがとう。
次は私から渡したい」と書かれていた。
娘はお気に入りのシールを1枚選び、封筒に入れた。
しかし、学校の玄関まで行くと足が止まった。私は「今日は帰ってもいいよ」と伝えた。
すると娘はしばらく黙った後、首を横に振った。
別室に入ると、あの子が待っていた。
娘は言葉の代わりに封筒を差し出した。
女の子が中を見て笑うと、娘は小さな声で言った。
「ありがとう」
たった5文字だった。
けれど、娘にとっては長い廊下を1人で歩くほど、大きな一歩だった。
それからも、登校できない日はある。教室で大勢と話せるようになったわけでもない。
ただ、週に1度だけ別室でその子と会い、シールを交換するようになった。
真っ白だったシール帳には、少しずつ色が増えている。
最初のページにある1枚は、珍しいから大切なのではない。
「話せなくても、あなたを待っているよ」
娘にとってそのシールは、初めて誰かから受け取った、言葉のいらない友情の証なのだ。