役場の窓口は、平日の午後になると妙に静かになる。来庁者の波が一度引き、空調の音とプリンターの作動音だけが淡々と響く。その日も私は、戸籍係のカウンターで書類を整え、次の受付に備えていた。公務員の仕事は感情を挟まない。目の前の紙と事実に従い、手続きを正しく進める。それが私の誇りでもあった。
しかし、その誇りが、胸の奥から崩れ落ちる瞬間が来るなど、想像していなかった。
自動ドアが開き、二人組が入ってきた。男はサングラスを外しながら周囲を見回し、女は腕を絡めるように寄り添う。私はその横顔を見た瞬間、手が止まった。——夫だった。隣の女は初めて見る顔だが、距離感と視線の交わし方で分かる。夫は、私と来るべき場所ではない相手を連れている。
二人は番号札を取り、当然のように戸籍係の列へ向かった。私は立ち上がりたい衝動を抑え、椅子に深く腰掛けたまま視線だけで追った。制服の下で心臓が早鐘のように鳴る。けれど、私は“職員”だ。周囲の同僚も、来庁者もいる。動揺は見せられない。
やがて番号が呼ばれ、二人は窓口へ進んだ。担当は隣のカウンターの新人職員。私は無意識に、聞こえる範囲の会話に神経を集中させてしまう。
女が差し出した書類。上部に印刷された文字が目に入る。
——婚姻届。
視界が一瞬、白くなった。指先が冷える。喉の奥が乾き、息が浅くなる。それでも私は、仕事を続けるふりをした。ペンを持ち、無意味に書類を揃え、何度も同じ箇所を確認する。だが耳だけは、彼らの声を拾い続けた。
「証人欄はこちらで…はい、身分証を…」
淡々とした案内の中で、夫は笑っていた。
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