それは、地方の実家から自宅へ戻る新幹線の車内だった。生後三か月の息子を抱え、私は指定席に座っていたが、まもなく授乳の時間が近づいていた。粉ミルクを溶かす準備はしてある。あとは静かに飲ませられる場所を確保するだけだった。
デッキに出て、車掌に声をかけようとしたが、ちょうど通路の先に「多目的室使用中」の表示が出ているのが見えた。
扉の前には、杖をついた年配の女性が立っている。
私は丁寧に声をかけた。
「すみません、子どもにミルクをあげたいのですが、こちらはいつごろ空きますか?」
すると、その女性はぎろりとこちらを見た。
「ここはそういうのする場所じゃない!」
唐突な強い口調に、私は言葉を失った。
「多目的室はね、体の不自由な人のための部屋なの! 子どものミルクなんて、席でやればいいでしょ!」
(何だこの婆……)
思わず心の中でそう呟いてしまった。だが、口には出さない。
「もちろん、必要な方が優先なのは承知しています。ただ、もし空いていればお借りできないかと思いまして……」
できるだけ穏やかに返したが、女性は鼻で笑った。
「最近の若い母親は図々しいわね」
胸の奥がじわりと熱くなる。息子はちょうどぐずり始めていた。周囲の乗客もちらりとこちらを見る。
これ以上ここで言い合っても意味はない。私は車掌を探すことにした。
ほどなくして巡回中の車掌を見つけ、事情を説明する。
「現在、多目的室はどなたかがご利用中ですが、授乳のためにお借りできるタイミングはありますか?」
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