妻は美人だ。誰が見ても整った顔立ちで、街を歩けば振り返られる。結婚した当初、私はそれだけで優越感を覚えていた。周囲が羨む視線を向けるたびに、「俺は勝った」と心のどこかで思っていたのだ。
だが、その慢心が、すべての始まりだった。
私は日頃から、妻に対して上から目線で接していた。家事の段取りが少し遅れれば「要領が悪いな」と言い、料理の味が気に入らなければ「これで主婦を名乗るのか」と笑った。
仕事で疲れて帰った日は、労いの言葉より先に「ちゃんとできてるのか」と確認する。妻が何か言い返せば、「感情的になるな」と切り捨てた。
妻はいつも静かだった。反論も、泣き叫びもない。むしろ、丁寧に頭を下げ、淡々と動く。私はそれを「従順」と勘違いした。だからこそ、ある日から始まった妻の行動にも、最初は軽く受け止めてしまった。
毎朝、出勤前の玄関で、妻は一枚の紙を差し出す。
「離婚届、ここに置いておきますね」
紙の上には、見慣れた書式。役所の窓口でもらうあの用紙だ。署名欄は空白のまま。それを、まるで天気予報を伝えるように淡々と見せてくる。
最初は冗談かと思った。「またそれかよ」と笑い、靴を履いて出た。
しかし翌日も、その翌日も、妻は同じように離婚届を見せた。何も言わず、ただ一枚の紙で意思を示す。日に日に、私は苛立ちを募らせた。
「脅しか? 誰に吹き込まれた?」
妻は目を伏せたまま答える。
「脅しではありません。確認です」
その言い方が、私の神経を逆撫でした。確認? 何のだ。俺にサインさせたいだけだろう。そう決めつけた私は、さらに態度を強めた。
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