夫が土下座したのは、梅雨の湿った夜だった。畳に額を押しつけ、肩を震わせながら、彼は同じ言葉を繰り返した。
「離婚してくれ……頼む」
私は食卓の椅子に座ったまま、湯呑みの縁を指でなぞっていた。驚きは不思議と薄かった。ここ数カ月、帰りが遅い日が増え、香水の匂いが衣服に残り、視線がどこか落ち着かない。違和感は積もりに積もっていた。
決定打は、彼のスマートフォンの通知だった。見たくないものほど、目に入る。
「彼女、妊娠した。責任を取らないといけない」
土下座のまま、彼はそう言った。泣いているように見せかけた声。だが、どこか安堵の混じる響きがあった。私はただ、静かに頷いた。怒鳴りたい気持ちは確かにあった。それでも、感情で場を荒らせば、彼は被害者の顔を作る。そういう人間だと、私はもう理解していた。
「分かりました。手続きの話をしましょう」
私がそう言うと、夫は顔を上げた。予想外の反応だったのだろう。私が泣き崩れ、すがりつくとでも思っていたのかもしれない。彼は唇の端を引き上げ、嘲るように笑った。
「……涙ひとつこぼさないのか?お前はw」
その笑いが、私の中の最後の情を切り落とした。私は湯呑みを置き、淡々と返した。
「泣く理由がないので」
離婚は驚くほど早く進んだ。私は弁護士に依頼し、財産分与と必要事項を整理した。夫は「早く終わらせたい」としか言わず、細部の確認にも投げやりだった。彼の視線は常に未来へ向いている。浮気相手と新しい生活を始めることだけが頭の中にあるようだった。
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