父が定年を迎えた春、実家の空気は妙に張り詰めていた。食卓の上に置かれた湯呑みの湯気が、いつもより白く濃く見えたのを覚えている。父は無口に箸を動かし、母は視線だけを泳がせる。沈黙を破ったのは妹だった。
「お姉ちゃん、聞いて。二世帯住宅を建てることにしたの。父の退職金でね」
言い切る口調は、相談ではなく通告だった。私は驚きながらも、「それは…父さんが決めたの?」と確認した。
すると妹は、わざとらしく笑い、テーブルに肘をついた。
「決めたっていうか、これが一番合理的でしょ? 私たちが面倒見るんだから。だから――金輪際この家とは関わらないで」
その瞬間、胸の奥で何かが落ちた。家族という言葉が、急に取引の単位に変わったように感じた。母が小さく「そんな言い方…」と呟いたが、妹は聞こえないふりをした。父は何も言わない。言えないのか、言わないのか。私は喉の奥が熱くなるのを必死に抑えた。
「分かった」
私がそう答えると、妹は満足そうに頷いた。まるで勝利宣言のようだった。夫に事前相談もなく決めたという二世帯住宅、しかも退職金を丸ごと投入するという話に、私は不安しかなかった。
しかし、私が口を挟めば「関わるなと言ったでしょ」と突き放されるのは目に見えていた。
数日後、妹から封筒が届いた。中に入っていたのは「遺産放棄に関する書類」だった。まだ父は存命だ。にもかかわらず、将来を先回りして私に放棄を迫る内容で、説明文には「今後のトラブル防止のため」とだけ書かれていた。署名欄の空白が、無遠慮に私を見つめている気がした。
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