朝の電車は、息が詰まるほど混み合います。吊り革が揺れ、人の肩が触れ合い、誰もが自分の世界に閉じこもるように目線を落としている。私はその日、たまたま優先席付近のドア横に立っていました。目的地まで十数分。いつもなら、ただ耐えて過ぎる時間のはずでした。
ところが、目の前で小さな火種が生まれたのです。
次の駅で、若い妊婦さんが乗ってきました。
お腹はまだ大きくないものの、マタニティマークが揺れていて、顔色が明らかに青白い。手すりを掴む指先が震えていました。つわりでしょう、呼吸が浅く、今にも崩れ落ちそうな気配がありました。
妊婦さんは周囲を一度見回し、空いていた優先席の端に、そっと腰を下ろしました。そこには既に、向かい側にお爺さんが一人座っていました。背筋は曲がっているものの、目は意外としっかりしていて、状況を静かに見ているようでした。
その直後です。立っていたおばさんが、妊婦さんの前にずいっと踏み込みました。声はやけに通る。車内の空気を切り裂くように響きました。
「ちょっと! ここは年寄りのための席なんだから、座るんじゃないよ!」
妊婦さんは驚いて顔を上げました。目が潤み、唇がかすかに震えています。けれど彼女は、丁寧に頭を下げました。
「すみません……つわりで気分が悪いので……少しだけ座らせてください」
その言い方が、逆におばさんの苛立ちを刺激したようでした。おばさんは鼻で笑い、腕を組んで言い返します。
「つわり? そんなの甘えでしょ。若いんだから立ってなさいよ。
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