満員電車の朝は、戦場に似ている。
押し合いへし合い、息を吸うだけで神経を使う。誰もが「自分の遅刻だけは避けたい」と思っている。俺も同じだった。今日は重要な会議がある。新人の頃から準備してきた案件で、資料も昨夜遅くまで詰めた。絶対に落とせない一日――そう思いながら、車内の隙間に体をねじ込んだ。
そのとき、背後から小さな声がした。
「やめて……」
聞き間違いかと思った。けれど、次の瞬間、女性の肩が不自然に震えた。視線だけで確認すると、背の低い女性が顔を青くし、必死に身体を縮めている。その背後に、男の手。つり革を握るふりをしながら、指先だけが明らかに不自然に動いていた。
――痴漢だ。
車内は満員。逃げ場はない。女性は声を出せず、周囲は気づかないふりをしている。もし俺が見て見ぬふりをしたら、彼女はこの数分を地獄として記憶する。
そう思った瞬間、俺は体をねじり、男と女性の間に割って入った。
「やめろ。今の、見てた」
男は一瞬固まり、すぐに面倒くさそうに舌打ちした。
「は? 触ってねーし」
「触ってた。女性、駅員呼びますか」
俺が声を上げると、周囲がようやく動き始めた。「どうした?」と誰かが言い、別の人が車内の非常通報ボタンの位置を探し始める。男は苛立ち、降りるふりをして反対側のドアへ押し出そうとした。俺は逃がさないよう、距離を詰めた。
次の駅でドアが開く。
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