結婚して四十一年。私は夫の小さな変化も見逃さないつもりで生きてきた。会社が倒産寸前まで追い込まれた二十七年前でさえ、夫はこれほど深刻な表情を見せたことはなかった。
「あなた、具合でも悪いの?」
そう尋ねると、夫はゆっくり首を横に振った。
「いや……そういうわけじゃないんだ」
しかし、その声には明らかな迷いがあった。
しばらく沈黙が続いた後、夫は意を決したように私の名前を呼んだ。
「恵美子」
その声は、いつもの力強い夫のものではなかった。
「念のためだ。あくまで念のためなんだが……」
私は思わず背筋を伸ばした。
「俺の金融資産、全部合わせると三十五億円くらいあるだろう」
「ええ……知っているわ」
夫は私の目をまっすぐ見つめた。
「明日、それを全部君の口座に移してくれ」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「三十五億円を……私の口座に?」
「ああ」
「でも、それは……」
「贈与じゃない」
夫はすぐに言葉を重ねた。
「君にあげるわけじゃない。ただ、預かってほしいんだ」
そして、静かに続けた。
「俺が死んだら、全部俺の相続財産としてきちんと処理してくれればいい」
「死んだらなんて……縁起でもないことを言わないでください」
私は思わず声を荒げた。
しかし、夫は悲しそうに微笑んだだけだった。
「人間、いつ何が起きるかわからないからな」
その言葉の裏には、深い疲れと、ある人物への警戒心が隠れていた。
私たちの一人息子、健太。
三十九歳になる健太は、父親の会社を継がず、自分で物流システム会社を立ち上げた。社員は八十人を超え、事業も一見順調に見えていた。
私たち夫婦にとって、それは大きな誇りだった。
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引用元:https://www.youtube.com/watch?v=NOdpRlFfawo,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]