山梨県の静かな里に暮らす七十歳の元歴史教師・榊原健二郎は、富士山麓を歩くことを日課としていた。澄んだ空気、木立を抜ける風、鳥のさえずり――それらは退職後の彼にとって、静かな生の証だった。
しかし、ある晩秋の朝、山道で彼の運命を揺さぶる白い影が現れる。銀糸のように光を放つ白蛇が、突然道の中央にとぐろを巻き、健二郎を真っ直ぐに見据えたのである。
富士山に伝わる“白蛇は山神の使い”という伝承が脳裏をよぎり、彼の心に寒気が走った。
蛇は一歩も動かない。まるで「これより先へ進むな」と告げる門番のように。理性的な声は『ただの蛇だ』と囁く一方、深層の直感は『神の警告だ』と叫んでいた。やがて健二郎は決意する。「今日は別の道を行こう」。七十年の経験が彼に“退く勇気”を選ばせた瞬間だった。
だが、迂回路として選んだ獣道は急峻で、老人の脚には厳しかった。木の根に躓きながらも進む健二郎の胸には、先ほどの白蛇の眼差しが焼きついていた――深淵を映すような、澄み切った瞳。
幼い頃、祖父から聞かされた“富士は生きている”という言葉が、今さらながらに重みを帯びる。
ようやく開けた岩場に腰を下ろすと、風が強まり雲が流れた。遠景の富士は荘厳にして無言。健二郎は妻・小百合が握ってくれた梅干しのおにぎりを頬張りつつ、胸のざわつきを鎮めようとする。――その頃、彼の“いつもの小道”では、前夜の雨で地盤が崩れ落ち、登山客二名が土砂に呑まれていた。
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引用元:https://www.youtube.com/watch?v=28LnrlayND0,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]