結婚記念日の旅行先で、夫に「足を滑らせたんだ」と囁かれ、私は崖下へ落ちた。病室で目を覚ますと、夫は優しく笑い「事故だよ。警察にもそう言って」と言う。私が真実を口にすれば、この国で一人になる――その恐怖が喉を塞いだ。
妊娠してまだ安定期にも入っていない時期だった。夫は「気分転換しよう。海も見えるし」と海外旅行を提案した。私は少し迷ったけれど、最近機嫌が良かった夫を見て、期待してしまったのだと思う。
これでまた夫婦が戻るかもしれない、と。
国立公園の展望台は、観光客が少なかった。風が強く、足元の石が湿っていた。夫はスマホを私に向け、「そこに立って。いい写真になる」と言った。私は一歩引いた。危ない、と感じたから。次の瞬間、背中に硬い力が当たった。押された、というより“突き飛ばされた”感覚。空が回転し、音が消えた。
次に目を開けたのは白い天井。身体は思うように動かず、口の中は砂みたいに乾いていた。看護師の言葉は半分も分からない。スマホは見当たらず、パスポートも財布も、夫が「預かってる」と言った。夫は医師に深々と頭を下げ、泣きそうな顔で「妻が転んで…」と説明していた。完璧な“献身的な夫”だった。
けれど夜になると声が変わった。ベッド脇で私の手を握ったまま、低い声で言う。
「余計なことは言うな。家族のためだ」
家族、という言葉が刃物みたいに刺さった。私のためじゃない。夫のための“家族”。
私は混乱したふりをした。
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