彼に促され、私は静かな住宅街の路肩で車を降りた。初夏の陽射しは穏やかで、胸の奥に漂う不安だけが場違いに重かった。背後から、低く抑えた声が私を呼び止める。振り向いた瞬間、視界が凍りついた。そこに立っていたのは、夫だった。
「……楽しんだか?」
刃のような言葉に、息が詰まる。私の口からこぼれたのは、意味を成さない音だけだった。
彼の車から降りる姿を、確かに見られていた。その事実が、全身の血の気を奪っていく。
私は三十二歳の小学校教員で、同い年の夫と、五歳の娘と三人で暮らしていた。教職にやりがいを感じ、部活動の顧問も引き受け、家にいる時間は少なかった。夫は在宅でデザイン事務所を営み、家事や育児を一手に担ってくれていた。理解ある伴侶だと、疑いもせずに。
転機は、担任クラスの男の子が体調を崩した日のことだった。迎えに来た父親は誠実そうで、子どもの体調を案じる様子に、私は自然と連絡を取り合うようになった。相談は次第に頻度を増し、場所は人目を避けた個室へと移っていく。家庭の愚痴を聞くうちに、私の中で一線が曖昧になっていった。
「先生みたいな人と結婚すればよかった」
その言葉に、私は目を逸らした。拒むべきだった。けれど、秘密が生む高揚と、理解されているという錯覚が、理性を鈍らせた。やがて私は、二人だけの非日常に溺れ、慎重さという名の言い訳で、自らを正当化していった。
その週末、日帰りの温泉に行く計画が、すべての終わりだった。彼の車は、なぜか私の実家へ向かっていた。
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引用元:https://www.youtube.com/watch?v=BFm88-_3tnM,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]