あの日の出来事を、私は今も胸の奥にしまい込んでいる。
誰にも語ることのできない、ひと夏の記憶として。
妻の弓が海外への長期出張を命じられたのは、六月の初めだった。期間は約一か月。子どものいない私たち夫婦にとって、普段なら問題のない出来事だったはずだ。しかし、私たちが住むマンションでは同時期に大規模な水道管工事が予定されており、生活に支障が出ることが分かっていた。
「工事の間だけでも、実家に泊まってもらえないかしら」
そうして私は、義母・千春さんの家に身を寄せることになった。義父は数年前に他界し、彼女は一人暮らしを続けている。五十六歳とは思えないほど背筋の伸びた立ち姿と、品のある佇まいが印象的な女性だった。
玄関で迎えてくれた千春さんは、淡い色のワンピースに身を包み、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。
「遠慮しないで、ゆっくりしていってね。弓がいない間は、私がしっかり面倒を見るわ」
その言葉に、私は頭を下げた。これまで何度も訪れた家だが、妻がいない状況で二人きりになるのは初めてで、どこか落ち着かない緊張があった。
千春さんの手料理は、心に沁みる味だった。
煮物、焼き魚、そして私の好物だと聞いて用意してくれた茶碗蒸し。温かい家庭の食卓に、私は久しく忘れていた安らぎを覚えた。
夜、雨に濡れる庭の紫陽花を眺めながら、千春さんはぽつりと語った。
「こうして誰かと食事をするの、本当に久しぶりなの」
その横顔に浮かんだ寂しさに、私は胸を締めつけられた。明るく振る舞う彼女の、誰にも見せなかった孤独。
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=ODi0I0MPRrk,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]