定年退職の日というのは、多くの夫婦にとって新しい人生の始まりの日になるはずだった。
長年働き続けた夫を妻が労い、これからは二人で穏やかな時間を過ごす。そんな未来を誰もが想像するだろう。
しかし、まさしが選んだ言葉は、妻への感謝ではなかった。
「美代子、離婚しよう」
その一言が、三十九年間ともに歩んできた夫婦の関係を大きく変えることになるとは、まさし自身もまだ気づいていなかった。
その日の夜、美代子は退職祝いの食卓を整えていた。
赤飯、鯛の塩焼き、そしてまさしが好きだった酒。
「三十九年間、本当にお疲れ様でした。明日からは二人でゆっくりできますね」
美代子が穏やかに笑いながら酒を注ぐと、まさしは少し間を置いて口を開いた。
「そのことなんだが……離婚しよう」
一瞬、美代子の手が止まった。
驚きよりも先に、胸の奥に冷たい感覚が広がった。
「今、何て言ったの?」
「聞こえただろう。俺はもう十分働いた。残りの人生くらい、自分の好きなように生きたいんだ」
まさしは淡々としていた。
まるで、もう何カ月も前から決めていた予定を伝えるような口調だった。
「家は売る。退職金は俺が働いて得たものだ。
お前には三百万円渡す。それだけあれば困らないだろう」
その言葉を聞いた瞬間、美代子はすべてを理解した。
三十九年間、家事をしてきたこと。
子どもを育ててきたこと。
まさしの両親の介護を支えてきたこと。
それらは、まさしの中では「当たり前」であり、価値のあるものとして数えられていなかったのだ。
「もう全部決めてあるのね」
「ああ。今さら話し合っても結論は変わらない」
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引用元:https://www.youtube.com/watch?v=9qOPi8faejg,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]