夫が愛人を連れて海外へ出発したのを見届けた朝、私は迷いなく、義実家として使わせていた家の売却書類に署名した。
不動産会社の応接室は、朝の光に照らされて静かだった。薄く漂うコーヒーの香りが、妙に現実感を強めている。窓の外では通勤車両が途切れなく流れ、世の中は何事もないように動いていた。だが、私の中では、もう何かが完全に終わっていた。
担当者が書類を確認しながら、慎重な声で告げる。
「白石様、本日で売却手続きは正式に進行いたします。退去通知も、予定通り先方へ送付いたします」
「お願いします」
私は短く答えた。
その家は、長年、白石家の実家のように扱われてきた。義母の君枝は、近所や親戚に会うたび、自慢げに口にしていた。
――うちの涼介が、親孝行で用意してくれた家なのよ。
――長男がしっかりしていると、老後も安心だわ。
――佐江さんも、住まわせてもらっている立場をわきまえないとね。
私はそのたび、笑ってやり過ごしてきた。
だが、真実は違う。
あの家を買ったのは私の父だった。名義も私。固定資産税も修繕費も、外壁の塗り替えも、給湯器の交換も、すべて私が負担してきた。涼介の両親が住む場所に困っていたとき、父は静かに言った。
「さえ、お前は結婚したんだ。向こうのご両親も、困らせたくないだろう。家はこちらで用意する。ただし、名義はお前にしておけ」
そのときの私は、その言葉の重みを深く考えなかった。
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引用元:https://www.youtube.com/watch?v=Jr902QONPJY,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]