婚約者の母に連れられて銀行へ行った日、私は自分の結婚資金を「新生活口座」へ移すよう、当然のように迫られていた。
「嫁に来るなら、お金の管理もこちらに合わせてもらわないと困るのよ」
柏木悦子さんは、窓口の椅子に腰掛けたまま、何でもないことのように言った。
私は隣で膝の上のバッグをぎゅっと握り締めるしかなかった。銀行の中は平日の午前中らしく、年配の客や会社員でほどよく混んでいた。
番号札の呼び出し音が鳴り、奥のカウンターでは職員たちが書類を確認している。そんな中で、悦子さんだけがやけに落ち着いて見えた。
まるで、今日この場で私のお金が柏木家の管理下に入ることが、すでに決まっているかのように。
「はるかさん」
悦子さんが私の名前を呼んだ。
「あなたももうすぐ柏木家の人間になるのだから。いつまでも、自分のお金だの私のお金だの、分けて考えていてはだめよ」
「でも、これは……父が残してくれたお金で」
私が言いかけると、悦子さんはすぐに笑顔を作った。とても優しそうな顔だった。だが、その目は少しも笑っていなかった。
「だからこそよ。亡くなったお父様も、あなたが一人で不安な思いをするより、しっかりした家に守られるほうが安心なさるでしょう」
その言葉に、胸の奥がひりついた。
父は三年前に亡くなった。母は私が高校生のころに病気で亡くなり、父は小さな印刷会社を守りながら、私を一人で育ててくれた。派手な暮らしは一度もなかった。それでも父は、苦労を私に見せまいとして、いつも明るくふるまっていた。
『人に迷惑をかけずに生きるのも大事だ。だが、一人で全部背負い込むのは違うぞ』
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=n9VW_mAWaAI,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]