90歳の義父を、私はほぼ一人で介護していた。朝は排泄介助から始まり、食事の準備、服薬管理、通院の付き添い、夜間の見守りまで続く。夫は「仕事が忙しい」を盾に家事も介護も手を出さず、私の疲労は毎日積み重なっていった。眠りが浅くなり、鏡に映る顔はいつも青白い。けれど義父は悪い人ではなく、弱っていく姿を見ると、投げ出すこともできなかった。
そんなある日、夫が珍しく早く帰宅した。妙に落ち着かない様子で靴を脱ぎ、私に目を合わせない。嫌な予感が胸をよぎる。
「話がある」
夫はテーブルの椅子に座り、息を吐くように言った。
「妹を妊娠させた。離婚してくれ」
一瞬、耳が理解を拒んだ。妹――夫の実妹だ。冗談ではない。私は手にしていた薬の袋を置き、ゆっくり顔を上げた。夫の口元には、罪悪感よりも「仕方ないだろ」という薄い開き直りが見えた。
私は驚かなかった。正確に言えば、驚きの後に来るはずの怒りや悲しみを、もう出せるほどの余力が残っていなかった。義父の介護で心は擦り切れ、夫への期待もとうに枯れていたのだ。
「分かった」
そう言って私は立ち上がり、引き出しから離婚届を取り出した。
夫が目を丸くする。
「は?」
私はペンと一緒に書類をテーブルへ置き、淡々と続けた。
「はい、離婚届。介護は任せるね」
夫の表情が一気に歪む。次の瞬間、机を叩く音が部屋に響いた。
「は?介護はお前の役目だろ!」
怒鳴り声に、隣の部屋で横になっている義父が微かに身じろぎした。私は反射的に声量を落とし、しかし言葉は鋭く返した。
「無理」
「何が無理だよ! お前が嫁なんだから――」
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください