仕事から帰宅した私は、洗面所の前で足を止めた。
洗濯機の隙間から、人間の手が2本垂れ下がっていたのだ。
青白い指先は力なく曲がり、まるで誰かが洗濯槽の中に押し込まれ、最後の力で外へ手を伸ばしているように見えた。
「お、おい……誰かいるのか?」
返事はない。
昼間、妻から「近所で不審な人を見かけた」と聞いたばかりだった。まさか泥棒が入り、妻と揉み合いになったのではないか。
最悪の光景が次々と頭に浮かび、心臓が激しく鳴り始めた。
恐る恐る近づいた瞬間、洗濯機の中から低い音がした。
私は思わず後ろへ飛び退き、廊下の壁に背中をぶつけた。その拍子に買い物袋が床へ落ち、中の缶コーヒーが転がっていった。
震える手でスマートフォンを取り出し、警察へ電話しようとした、その時だった。
「あなた、帰ってたの?」
背後から妻の声がした。
驚いて振り返ると、妻はスーパーの袋を提げ、不思議そうな顔で立っていた。
「無事だったのか! じゃあ、あの手は誰のだ!」
私が洗濯機を指さすと、妻は数秒黙ったあと、吹き出した。
「何を言ってるの。ただの手袋よ」
妻が指先をつまんで持ち上げると、現れたのは肌色に近いピンク色のゴム手袋だった。
洗ったあと、乾きやすいように洗濯機の縁へ並べて干していたらしい。
「こんな干し方をしたら、本物の手に見えるだろ!」
「いつも家事をしていたら、ゴム手袋だってすぐ分かるわよ」
妻は笑いながら答えたが、私はまだ胸を押さえたままだった。
そこへ、物音を聞いた隣人が心配して玄関から声をかけてきた。事情を説明すると、隣人も洗面所をのぞき込み、一瞬だけ顔を引きつらせた。
「奥さん、これは私でも通報しかけますよ」
味方を得た私は何度もうなずいた。
しかし妻は反省するどころか、その光景を写真に撮り、家族のグループチャットへ送ってしまった。
すると息子から、すぐに返信が届いた。
「父さんの今年一番の大事件、被害者はゴム手袋2名」
娘からは、
「犯人は洗濯機。動機は脱水」
という追撃まで来た。
その日の夕食中、家族全員に笑われた私は、妻に「もう二度と、あんな干し方はしないでくれ」と頼んだ。
妻は素直にうなずき、翌日からゴム手袋を物干し竿へ移した。
これで安心だと思っていた。
ところが数日後、庭へ出た私は再び固まった。
物干し竿には、ゴム手袋が5組も並び、風に揺られながら一斉にこちらへ手招きしていたのだ。
「前より怖くなってるじゃないか!」
私の叫び声を聞き、窓から顔を出した妻は満面の笑みで言った。
「ちゃんと洗濯機から移したでしょう?」
以来、わが家では肌色のゴム手袋は禁止になった。
ただし妻は今も、「家事を手伝わない人への戒めには、あの干し方が一番効いた」と笑っている。