帰宅ラッシュの電車は、いつものように息苦しいほど混んでいた。
私はドア付近に立ち、吊り革につかまりながら、ぼんやりと窓に映る車内を見ていた。
その時、目の前にいた若いカップルの様子がおかしいことに気づいた。
男性は額に汗を浮かべ、足元を何度も覗き込んでいる。
隣の女性も、座席の下や鞄の隙間を必死に探していた。
最初はイヤホンでも落としたのだろうと思った。
けれど、二人の空気は妙に張り詰めていた。
男性は小声で言った。
「早く探せよ。見つかったらまずいだろ」
女性は顔を青くしたまま答えた。
「私のせいじゃないでしょ。あなたが落としたんじゃない」
その言葉が耳に入り、私は思わず声を掛けた。
「あの、何か落とされたんですか? 足元、見ましょうか」
すると、女性がゆっくり顔を上げた。
その目には、怒りと涙が混じっていた。
そして次の瞬間、彼女は車内に響くほどはっきりした声で言った。
「この人、奥さんに渡すはずの結婚記念日の指輪を、私とのデート帰りに落としたんです」
一瞬、電車の音まで止まったように感じた。
周りの乗客が、一斉にこちらを振り返った。
男性の顔は真っ赤になった。
「おい、やめろよ!」
しかし女性は止まらなかった。
「私は独身だって聞いてました。彼女もいないって。でも、さっきスマホに“今日は早く帰ってきてね、赤ちゃんも待ってるよ”って通知が来たんです」
車内の空気が一気に冷えた。
近くにいた年配の女性が、座席の下から小さな箱を拾い上げた。
「これじゃないかしら」
濃紺の小さな箱だった。
男性が慌てて手を伸ばしたが、女性の方が先に受け取った。
中には、きらりと光る指輪が入っていた。
内側には小さく文字が刻まれていた。
「由美へ。これからも家族三人で」
女性はその文字を見て、静かに笑った。
悲しみを通り越した、冷たい笑みだった。
「家族三人、ですか。私には“結婚なんて考えたことない”って言ってましたよね」
男性は何も言えなかった。
次の駅に着くと、女性は箱を男性に押しつけた。
「奥さんに渡してください。あなたの嘘ごと全部」
そして私に向かって、深く頭を下げた。
「声を掛けてくださって、ありがとうございました。おかげで、もう探し物は終わりました」
ドアが開き、彼女は一人でホームへ降りた。
男性は車内に残されたまま、周囲の視線に耐えきれず、次の駅で逃げるように降りていった。
電車は何事もなかったように走り出した。
けれど、あの時の沈黙と、女性の最後の一言だけは、今でも忘れられない。
探していたのは指輪ではなかった。
彼女が本当に探していたのは、信じていた男の正体だったのだ。
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=Mm3tKgLML14,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]