「給料、今月は払えないんだよね」
院長にそう言われた瞬間、頭の中が真っ白になった。
私はこの歯科医院で働く、たった1人のスタッフだ。
受付も電話も会計も診療補助も、ほとんど全部1人で回してきた。
それでも経営が厳しいと言われ、最終的に辞めることになった。
悔しかったけれど、そこまでは仕方がないと思っていた。
ところが退職を控えたある日、院長が1枚の紙を差し出してきた。
「これ、署名するだけだから」
見ると、上には大きく「退職届」。
そして本文には、
「このたび一身上の都合により――」
私はそこで手を止めた。
「先生、これには署名できません」
院長の顔が固まった。
「なんで?」
「私は自分の都合で辞めるわけではありません。先生から“給料を払えない”と言われたことがきっかけですよね」
すると院長は明らかに不機嫌になった。
「そんな細かいこと、どうでもいいでしょ。形式だから」
いや、どうでもよくない。
理由が違う書類に、自分の名前を書くことはできない。
私は静かにもう一度、
「事実と違うので署名しません」
と伝えた。
次の瞬間だった。
ビリッ。
院長は私の目の前で退職届を破った。
さらに何度も破り、そのままゴミ箱へ。
「じゃあ、もういい!」
私は何も言わなかった。
ただ、院長が奥へ行ったのを確認してから、ゴミ箱の中に手を入れた。
破られた紙を、1枚ずつ拾った。
「退職届」
「一身上の都合」
そして医院名。
破れていても文字は十分読める。
私は机の上に並べ、その状態を写真に残した。
同時に、これまで院長から言われた給与に関する話、勤務日、給与明細、やり取りも整理した。
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください