平日の午後、私は少し空いている普通列車のグリーン車に乗った。
モバイルSuicaでグリーン券を購入し、2階席の窓側を選ぶ。頭上の読み取り部にスマートフォンをかざすと、ランプが赤から緑に変わった。
発車から30分ほどたった頃、私は荷物を持って化粧室へ向かった。
数分後に戻ると、私が使っていた席には、見知らぬ母親と小学生くらいの男の子が座っていた。
母親は私と目が合っても、立とうとしない。
「ここ、私が使っていた席ですが」
そう伝えると、母親は窓の外を見たまま答えた。
「ほかにも空いてるでしょ。子どもが窓側に座りたいって言うから」
空席はたくさんある。
それなのに、わざわざ緑のランプが点灯している席を選んだ理由は明らかだった。
私は言い争わず、座席の後ろから読み取り部にスマートフォンをタッチした。そのまま隣の車両へ移動し、別の空席でもう一度タッチする。
同じ列車内で席を移る場合、移動先で再びタッチすれば利用情報も移る仕組みだ。
約10分後、グリーンアテンダントが親子の前で足を止めた。
2席ともランプが赤く、空席表示に戻っていたからだ。
「グリーン券を確認させていただけますか」
すると母親は急に声を上げた。
「さっきまで緑だったんです! あの人にSuicaの情報を盗まれました!」
指をさされた私は、静かにスマートフォンの購入画面を開いた。
そこには購入時刻、利用区間、現在使用中の座席情報がすべて表示されている。
さらに私はカード型Suicaではなく、端末内のモバイルSuicaを利用していた。
母親のSuicaを触るどころか、近づいてもいない。
アテンダントが母親に尋ねた。
「お客様ご自身のグリーン券購入履歴を拝見できますか」
母親の手が止まった。
スマートフォンにも、手持ちのSuicaにも、グリーン券の記録はなかった。
「子どもが疲れていたから、少しくらいいいと思っただけよ」
先ほどまでの強気な態度は消え、声も小さくなっていた。
アテンダントは冷静に、親子2人分のグリーン券が必要だと説明した。母親は周囲の視線に耐えられなくなったのか、その場で2人分の料金を支払った。
そして別の席へ移る直前、男の子が小さな声で言った。
「ママ、最初から買えばよかったのに」
母親は何も答えられなかった。
私は最後まで静かな席で過ごし、予定どおり目的地に到着した。
空いている席だからといって、他人が支払った権利まで無料になるわけではない。
大声で責めなくても、正規の記録はきちんと事実を示してくれるのだ。