銀行のロビーで笑われながら、俺は古い写真を見ていた。
若い頃の俺と、亡き妻が写った写真だ。
まだ何も持っていなかった頃、妻は俺に言った。
「いつか成功しても、人を見た目で判断しない人でいてね」
その言葉だけは、何十年たっても忘れなかった。
だからその日も、高級なスーツは着なかった。
いつもの古いコートで銀行へ行き、静かに頼んだ。
「1億円、引き出したいのですが」
窓口の行員は俺を見て笑いをこらえた。
副支店長までやって来て、
「生活保護なら役所へ」
「ここはあなたが来る場所ではありません」
と、周囲に聞こえる声で言った。
通帳を盗んだのではないか。
認知症なのではないか。
そんな言葉まで飛んできた。
俺は反論しなかった。
ただ、彼らが何を見る人間なのかを見ていた。
その中で、1人だけ違ったのが新人行員の森本だった。
彼は俺の言葉遣いや態度に違和感を覚え、別の端末で口座を確認した。
表示された残高は1兆円。
さらに口座名義には、俺が代表を務める企業グループの名前があった。
森本は何度も上司へ伝えようとした。
だが誰も聞かなかった。
「そんな格好の人間が持っているはずがない」
「システムのエラーだ」
彼らは数字より、自分たちの先入観を信じた。
そこで俺は秘書へ電話した。
数分後、銀行前に黒塗りの車が何台も並び始めた。
やがて銀行の理事長がロビーへ駆け込み、俺の前で深く頭を下げた。
ようやく窓口の行員たちの表情が変わった。
俺はそこで初めて、自分の立場を告げさせた。
預金総額は1兆円。
銀行の筆頭株主でもあり、付き合いは60年に及ぶ。
だが俺が確認したかったのは金額ではなかった。
金のない人間に見えた時でも、同じように客として扱えるのか。
それだけだった。
俺は銀行との取引終了を決めた。
そして帰ろうとした時、段ボール箱を抱えた森本を見つけた。
彼まで責任を問われていた。
俺は彼に名刺を渡した。
「君は見ようとした。それが大事なんだ」
10年後、森本は俺の会社の金融部門を支える人間になった。
あの日、銀行で最も価値があったのは1兆円の口座ではない。
目の前の人間を、服ではなく人として見ようとした1人の若者だった。