「私のチケットを使ってください」
その言葉を口にした瞬間、私は15年間追い続けてきた夢を手放した。
翌朝10時。
ブリュッセルの劇場では、憧れの歌手マリア・カレンの伴奏者を選ぶオーディションが行われる。
私は毎日8時間以上ピアノを練習し、アルバイトで稼いだお金もレッスンや楽譜に注ぎ込んできた。
本来ならもっと早く現地入りする予定だった。
だが前日、母が突然倒れた。
容体が落ち着くまでそばにいたため、取れたのは夜の最終便だけだった。
その空港で出会ったのが、1人の老人だった。
「50年連れ添った妻が危篤なんです」
ブリュッセル行きは満席。
翌朝の便では間に合わないかもしれないという。
私は自分のチケットを見た。
これを渡せば、私のオーディションも終わる。
それでも、母が倒れた時の恐怖を知っていた私は、老人を置いて搭乗口へ向かうことができなかった。
「私は大丈夫です」
本当は大丈夫ではなかった。
翌朝の便が着いたのは10時15分。
劇場へ到着した時には10時45分になっていた。
受付の女性は冷たく言った。
「時間通りに来られない人に、プロの世界は無理だと思います」
入場すら許されなかった。
私は劇場の外のベンチに座り、泣いた。
あの老人を助けなければよかったのか。
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