金曜日の夜、出汁の香りが漂う静かな台所で、私は一冊の通帳を見つめていた。最新のページに印字された冷徹な文字が、私の視界を支配する。
「お振込金額 800,000円 振込先 イシダ ヨシエ」
夫・健太の月給80万円は、今月も1円も残さず義母の口座へと吸い込まれていった。この無機質な文字列を目にするのは、結婚してからの6年間で実に72回目。
かつて胸を締め付けた痛みはとうに消え、今の私の心には、ただ冷たい氷の塊のような静寂が広がっていた。
健太はリビングのソファに深く腰掛け、テレビの画面をぼんやりと眺めている。まるでその通帳が存在しないかのように。
私は台所の火を消し、彼の正面に立った。 「あなた、話があるの」 「ん? なんだよ」 健太はようやく視線をこちらに向けた。 「会社でパリの大きなプロジェクトが決まったの。私、2ヶ月間フランス出張に行くことになったわ。出発は明後日よ」 「え……? パリ? 2ヶ月も?」 唖然とする夫の返事を待たず、私は寝室へと向かった。引き出しの奥には、1週間前から用意していた航空券が、静かにその時を待っていた。
フランスに到着して10日。私はセーヌ川に架かるポン・デス・アール(芸術橋)の上に立っていた。夕暮れの光が水面を金色に染め、乾いたパリの風が頬を撫でる。息を吸うことがこれほど楽だったなんて、この6年間すっかり忘れていた。
その時、ポケットの中でスマートフォンが激しく震えた。ディスプレイに表示されたのは「健太」の二文字。 通話ボタンを押すと、受話口から聞こえてきたのは、今にも泣き出しそうな夫の震える声だった。
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引用元:https://www.youtube.com/watch?v=FoJ5LJPxaeY,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]