毎朝、リビングのダイニングチェアが、少しだけ向きを変えていることに気づいたのは、二週間ほど前のことだった。
前の晩、きちんと壁際に戻したはずの椅子が、朝になるといつも壁の方を向いている。最初は、自分が寝ぼけて動かしてしまったのかと思っていた。
けれど、家族旅行で二泊ほど家を空けた翌朝も、同じように椅子の向きが変わっていた。
誰も家にいなかったはずなのに、それは奇妙なことだった。
高校三年生の娘に、それとなく聞いてみた。「最近、リビングの椅子動かしてる?」娘は「知らない」とだけ答え、それ以上は取り合ってくれなかった。反抗期も落ち着いてきたはずなのに、その素っ気なさが少し気になった。
さすがに気になって、ある夜、寝室を出てそっとリビングの様子を見に行ってみることにした。時刻は深夜零時を過ぎていた。
リビングには明かりがついていた。娘が一人、椅子を壁の方へ向けて座り、何かに向かって静かに話しかけている。手元には、大学案内のパンフレットと、びっしり書き込まれた小さなメモ帳があった。
「本日は、よろしくお願いいたします」
誰もいないはずの壁に向かって、娘は深々と頭を下げていた。
声をかけようとした瞬間、娘がふいに顔を上げ、私と目が合った。気まずそうに、慌ててメモ帳を閉じる。
「え、なに、見てた?」
正直に「たまたま通りかかった」と答えると、娘は観念したように事情を話し始めた。志望している大学のAO入試に、面接があるのだという。誰かに練習相手を頼むのも恥ずかしくて、一人で誰もいない椅子を面接官に見立てて、毎晩こっそり練習していたらしい。
「うまくいくかわからないから、言いたくなかった」
娘はそう言って、少し照れくさそうにうつむいた。うまくいくかどうか分からないことを、家族にすら話せない。その気持ちが、なんだか少し切なくもあり、同時に頼もしくも感じられた。
「よかったら、たまには本物の相手として練習に付き合おうか」
そう提案すると、娘は少し驚いた顔をしたあと、小さく頷いた。
それから週末の夜だけ、私が向かいの椅子に座って、娘の面接練習に付き合うようになった。
リビングの椅子は、今も時々、向きが変わっている。けれど、その理由はもう、家族全員が知っている。