その電話がかかってきたのは、予約の30分前だった。
「そんな貧乏臭い寿司はいらねえよ。50人分、120万円分丸ごとキャンセルで」
私、千里は受話器を握る手が震えた。父が仕込んでいた大トロも、艶のいいウニも、この日のために借りたお金で揃えたものだった。
「もっとマシな店見つけたから。無駄話はなしだ」
電話は一方的に切れた。
「お父さん、キャンセル来ました」
板場で仕上げをしていた父・健二が顔をあげた。信じられない、という顔だった。
2年前に母を亡くし、体を痛めながらも私のために準備してきた渾身の仕込みだった。私は専門学校を中退して、この店を手伝ってきた。今日の50人分の予約が実れば、店の借金を減らせるはずだった。
「ごめんなさい。私が予約の条件をもっと硬くしておけば」
「千里、お前のせいじゃない。俺の判断が甘かった」
生ものは長く持たない。並べかけの寿司を前に、私たちはただ黙って唇を噛んだ。120万円が、目の前で消えていく。
その夜午後10時、閉店後の店に静かに扉が開く音がした。
「こんばんは」
入ってきたのは、40年以上通ってくれている常連の、うるいさんだった。
地味だが仕立てのいい服を着た、穏やかな目つきの老人。
「うるおじさん」
私が顔をあげると、うるいさんは私の赤く腫れた目に気づいたようだった。
「ちさとちゃん、どうしたんだい」
私は震える声で、電話の内容を話した。
「貧乏臭い寿司はいらねえって。俺ら上位層には合わないって」
うるいさんは表情を変えなかったが、拳がわずかに震えていた。
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