会社の売上30%を左右する商談の日、俺は自信に満ちていた。
相手は年商3000億円の安倍グループ。
20年続いてきた重要取引先で、この契約更新を成功させれば、俺の評価も大きく上がるはずだった。
会議室に現れた先方の担当者は、少し硬い表情をしていた。
「今日は父も同席させていただきます」
その言葉のあとに入ってきた老人を見て、俺は言葉を失った。
数日前の金曜。
居酒屋のカウンターで、1人静かにおでんを食べていた老人だった。
あの日の俺は、部下に囲まれて酒を飲み、すっかり気が大きくなっていた。
「ああいう老人って惨めだよな」
「友達もいないんだろ」
部下が止めても聞かなかった。
最後には老人の席へ行き、わざとぶつかるようにしてビールをかけた。
店内は静まり返った。
それでも老人は怒らなかった。
店員が謝ると、
「大丈夫だよ。ちょっと濡れただけだ」
と笑った。
俺はそれを、弱さだと思った。
だが目の前にいるその人は、安倍グループの創業者だった。
「先週の金曜日だったかな」
老人は淡々と話し始めた。
「君は私を“寂しい老人”と笑っていたね」
俺は慌てて「冗談だった」「場を盛り上げようとした」と弁解した。
だが老人は声を荒らげなかった。
「あの日、君が後から店に謝りに来ていたら、話は違ったかもしれない」
その一言で、初めて気づいた。
老人が見ていたのは、ビールをかけられたことだけではなかった。
自分より弱そうに見える相手を、部下の前で笑いものにする人間なのか。
間違いに気づいたあと、自分から謝れる人間なのか。
そこを見られていたのだ。
契約更新は白紙になった。
年間売上の30%、約50億円に関わる取引だった。
会社からは責任を問われ、営業職を外れて年収680万円から480万円になるか、自主退職するかを選ぶよう告げられた。
俺は退職を選んだ。
その後、転職活動を続けても20社以上から断られた。
ある金曜の夜。
俺は1人で安い酒を飲んでいた。
ふと、あの日の老人を思い出した。
俺は彼を「1人で飲む惨めな老人」と決めつけた。
だが本当に見えていなかったのは、老人の価値ではない。
人を肩書きや見た目でしか判断できなかった、俺自身の小ささだった。