「実家を、今月中に売ってほしいの」
電話越しの母の声は、いつになく硬かった。
突然すぎる話に、私は言葉が出なかった。仕事の合間に受けた電話だったこともあり、しばらく状況が飲み込めなかった。
「どうして今なの。理由も言わずに」
母は言葉を濁すばかりだった。実家には、父が亡くなったあとも母が一人で住んでいた。庭の手入れも、近所付き合いも、母なりに大切にしてきた場所だった。
思い出の詰まった家を、急いで手放す理由が分からなかった。
何度電話しても、母は「決めたことだから」としか言わなかった。
心配になって、週末に実家を訪ねた。玄関を開けると、いつもきれいに片付いていたはずの台所に、洗い物が少し溜まっていた。テーブルの上には、メモ帳が置いてあった。
何気なく手に取ると、同じ文字が何度も書き直された跡があった。買い物リストの隣に、覚えのない単語が並んでいた。同じ日付が二重に書かれていたり、同じ用件が三回繰り返し書かれていたりした。几帳面だった母らしくない乱れた文字に、胸がざわついた。
母がそっとメモ帳を取り上げるように手に取った。
「見ないで」
その声は、今までに聞いたことのない、弱々しいものだった。
私は初めて、母の中にある不安の正体に気づき始めた。
「お母さん、もしかして……」
母はしばらく黙っていたが、やがてぽつりぽつりと話し始めた。
「最近、物忘れがひどくてね。同じことを何度も聞いてるって、近所の人に言われて」
一人でいるうちに何かあったら、私に迷惑をかけてしまう。そうなる前に、家を片付けて、私の近くに移りたい。母はそう考えていたのだという。
誰にも相談せず、一人でずっと悩んでいたのだと分かった。
「あなたに心配かけたくなかったの。弱ってる姿、見せたくなかったから」
母の声は震えていた。
「そんな決め方、寂しすぎるよ」
私はそう言って、母の手を握った。
その日、私たちは改めて、これからのことを話し合った。急いで家を手放すのではなく、まずは病院で診てもらうこと、必要であれば私の家の近くに一緒に住める場所を探すこと。
母一人で決めるのではなく、二人で考えていくことにした。
「今月中に」という言葉の裏にあったのは、母なりの覚悟と、私への遠慮だった。
帰り際、玄関先で母が「心配かけてごめんね」と小さく言った。私は「これからは、ちゃんと頼ってね」とだけ返した。
急いで答えを出す必要はない。それでも、母が一人で抱えていた不安を、これからは私も一緒に背負っていきたいと思っている。