「今日は払えません。給料日になったら、まとめて払います」
病院の会計窓口で、私の前に並んでいた40代くらいの男性が、消え入りそうな声で言った。
受付の女性は責める様子もなく、困った表情で確認した。
「前回と前々回の分も残っています。今日で3回目ですが……」
男性は財布の中を何度も確かめた。入っていたのは、数枚の小銭だけだった。
「すみません。今月は仕事を休んだ日が多くて……」
診察券を返された男性は、待合室の椅子に座り、両手で顔を覆った。
私は自分の会計を済ませた後も、その姿が気になって動けなかった。
病気になったから仕事を休み、仕事を休んだから医療費が払えない。そして医療費を払えないから、次の診察をためらう。
そんな悪循環が、目の前に見えた気がした。
私は受付へ戻り、小声で尋ねた。
「先ほどの方の未払い分は、いくらですか?」
受付の女性が驚いて私を見た。
「個人情報なので、詳しいことはお伝えできません」
「事情は聞きません。可能なら、私が匿名で支払いたいんです」
受付は上司に確認し、男性本人の了承も取った上で戻ってきた。
「合計8,400円です」
私にとっては、職場の飲み会1回分ほどの金額だった。
けれど、あの男性にとっては治療を続けられるかどうかを分ける金額だった。
支払いを済ませると、受付の女性が男性のもとへ向かった。
「未払い分は、匿名の方がお支払いくださいました」
男性は勢いよく顔を上げた。
「誰が……?」
受付に駆け寄り、周囲を見回しながら、何度も「ありがとうございます」と頭を下げていた。
私は名乗らず、そのまま病院を出た。
それから1か月後、同じ病院へ行くと、受付の女性が私を覚えていた。
「もし、あの日に支払ってくださった方が来たら渡してほしいと、預かっているものがあります」
差し出された封筒には、「あの日の方へ」と書かれていた。
手紙には、医療ソーシャルワーカーにつないでもらい、利用できる制度や分割払いについて相談できたこと、治療を中断せずに済み、仕事にも復帰できたことが記されていた。
最後の一文を読んで、私は涙が止まらなくなった。
「初めて給料を満額受け取った日に、地域のフードバンクへ8,400円寄付しました。今度は私が、知らない誰かを支える番です」
この出来事をきっかけに、病院では支払いに困っている患者を、早い段階で相談窓口へ案内する仕組みも作られたという。
優しさだけで、医療費の問題すべてを解決することはできない。
けれど、小さな行動が、誰かを必要な支援につなぐまでの橋になることはある。
あの日に渡した8,400円は、誰かの治療を支え、やがて別の誰かを助ける優しさへと変わっていた。