夫が定年退職してから、食卓での文句が急に増えた。
「味噌汁がぬるい」
「また惣菜か。手抜きだな」
「冷凍食品は体に悪いからやめろ」
私はまだ週5日、朝から夕方まで働いている。
それでも帰宅後に洗濯物を取り込み、風呂を洗い、夕食を作っていた。夫は一日中家にいるのに、ソファに座ってテレビを見ているだけだった。
ある晩、残業で帰宅が19時を過ぎたため、私はスーパーで焼き魚と煮物を買って帰った。
夫は食卓を見るなり、不機嫌そうに箸を置いた。
「定年まで働いた俺に、こんな物を食わせるのか?」
「あなたも一日中家にいたでしょう。ご飯くらい炊いてくれてもよかったんじゃない?」
すると夫は鼻で笑った。
「料理できるお前がやればいい。俺はやったことがないから無理だ」
その言葉で、私の中の何かが切れた。
私は静かに夫の前の皿を下げた。
「分かりました。料理できる私が、自分の分だけ作ります」
翌朝から、私は夫の食事を作るのをやめた。
夫は最初、冗談だと思っていたらしい。
「俺の朝飯は?」
「自分でお願いします」
昼はカップ麺、夜はコンビニ弁当。3日目には「冷蔵庫に何もない」と怒り出した。
だが、冷蔵庫には卵、野菜、豆腐、肉が入っていた。
「何もないんじゃなくて、調理された物がないだけでしょう」
私はそう答えた。
1週間後、夫はレシートの束を見て驚いた。外食と弁当だけで1万円以上使っていたのだ。
「食費がかかりすぎる」
「それは自分の分よ。お小遣いから出してください」
さらに私は、これまで私が負担してきた家事を書き出した。
買い物、調理、食器洗い、洗濯、掃除、ゴミ出し。
全部で週30時間近くになった。
「退職したのは会社からであって、家庭からではないでしょう」
夫は何も言い返せなかった。
それから数日後、帰宅すると台所から焦げた匂いがした。
夫が料理本を広げ、味噌汁と卵焼きを作っていた。卵焼きは形が崩れ、味噌汁は少し濃かった。
夫は気まずそうに言った。
「毎日作るのが、こんなに大変だとは思わなかった。
悪かった」
私はすぐには元通りにしなかった。
これからは朝食を夫、夕食を交代制にすること。料理をしない人が食器を洗うこと。惣菜や冷凍食品にも文句を言わないこと。
その3つを約束してもらった。
半年後、夫は味噌汁を作り、魚まで焼けるようになった。今では私が残業の日には、夕食を用意して待っている。
先日、夫が温めた味噌汁を私の前に置きながら言った。
「ぬるかったら、温め直すよ」
私は笑って首を振った。
「大丈夫。今日のはちょうどいい」
夫に必要だったのは、豪華な手料理ではない。
誰かが作ってくれることを当然だと思わず、自分も家庭を支えるという意識だった。