会社からの帰り道、田んぼの匂いを含んだ夕風が窓から入り込んできた。アクセルを緩め、いつもの細い農道に差しかかった時だ。うちの畑の脇――父が生前に設けた散水用の蛇口のあたりに、妙な人影が見えた。
街灯も少ない場所なのに、誰かが立っている。しかも、ホースを握って。
「……まさか」
車を停め、目を凝らす。若い女性が、ためらいもなく水を浴びていた。
濡れた髪を指で梳き、肩や腕を洗い流している。私は二十九歳、さとし。中小企業に勤める、ごく平凡な会社員だ。父を亡くしてからは、田舎の実家に戻り、母と暮らしている。母は変形性膝関節症の手術を受け、今は入院中。家に灯りが少ないのは、そのせいでもあった。
その夜は、見間違いだと自分に言い聞かせた。疲れている。そういうことにして、私はそのまま帰宅した。
しかし翌日、町内会の集まりで「不審者の目撃が増えている」「戸締りを徹底して」と、やけに物騒な話を聞かされると、昨夜の光景が頭にこびりついた。もし、あれが本当だったら。もし、危険な目に遭っているのだとしたら。
気になり始めると、私は放っておけない性分だった。
夜、散歩がてら畑の方へ回る。すると――蛇口の方から、確かに水の音がした。
そこには、昨日と同じ女性がいた。今まさに髪を洗おうとしている。細い肩が震え、濡れた服が肌に張りついていた。
私は意を決して声をかけた。
「ねえ、君……こんなところで水浴びしてたら、風邪ひくよ」
女性はビクッと肩を跳ね上げ、恐る恐る顔を上げた。大きく丸い目。
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引用元:https://www.youtube.com/watch?v=XbQsGVw1Bdk,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]