緑子は妊娠中だった。
ある日、新幹線の指定席に座っていると、若い大学生らしき男が近づいてきた。
「その席、譲れよ」
突然そう言われた。
緑子が自分の指定席だと説明しても、男は聞こうとしない。
さらに、
「俺の親父はヤクザだぞ」
と威圧するような言葉まで口にした。
その場の緊張で緑子は体調を崩した。
近くにいた人が助け、次の停車駅では救急対応を受けることになった。
幸い、緑子もお腹の子も大事には至らなかった。
だが家族にとって、「結果的に無事だった」では終わらない出来事だった。
特に怒ったのが、緑子の父・渋沢だった。
後日、大学生とその父親が呼ばれた。
大学生の父親は、自分も裏社会との関係を示しながら、金銭で話を終わらせようとした。
「これで勘弁してもらえませんか」
しかし渋沢は受け取らなかった。
そして自分の名を明かした瞬間、相手側の態度が変わった。
父親はその名前を知っていた。
一方、大学生本人は事情を理解しておらず、「そんな人、知らない」と強気なままだった。
だが話が進むにつれ、彼自身の立場も崩れていった。
彼が普段から口にしていた、「親父はヤクザだ」という言葉。
実際には、父親の立場を必要以上に大きく見せながら、一般人とのトラブルでその名前を利用していた。
しかも新幹線だけではなかった。
ゲームセンター、飲食店、別の場所でも同じように威圧的な言動を繰り返しており、警察には複数の相談や被害申告が寄せられていた。
大学生は自分を守ってもらおうとするが、父親側の関係者からも突き放された。
「自分で起こした問題に、組の名前を使うな」
という態度だった。
そして逃げるように警察へ助けを求めたところで、今度は自分自身への事情聴取が待っていた。
緑子の件だけなら、「席を巡るトラブル」と本人は思っていたのかもしれない。
しかし積み重ねてきた行動まで明らかになると、話はそれだけでは終わらなかった。
最も皮肉だったのは、本人がずっと自分を守ってくれると思っていた「親父の名前」が、最後には何の助けにもならなかったことだった。
誰かの肩書や立場を借りて他人を怖がらせても、自分のしたことの責任まで肩代わりしてもらえるわけではない。
緑子の父が最後に求めたのも、娘を危険な目に遭わせたことを軽く扱わないことだった。
「無事だったからいい」ではなく、何が起こり得たのかまで考えること。
あの日の新幹線で始まった騒動は、大学生がそれまで何度も使ってきた「親父はヤクザだぞ」という一言が、ついに通用しなくなった瞬間でもあった。