「妊婦なんです。タバコ、やめてください」
食後のコーヒーを飲みながら一服していた私に、隣の女性が突然そう言った。
最初は、自分に言われたとは思わなかった。
私は店内の喫煙席に座っていたからだ。
テーブルの中央には灰皿。
壁には大きく「喫煙席」と書かれた表示。
禁煙席とは、腰ほどの高さの仕切りを挟んで完全に分けられていた。
それでも女性は、私の手元のタバコを見つめたまま動かなかった。
「煙が来るんです。赤ちゃんに悪いので、消してもらえませんか」
女性は明らかに妊娠していた。
ゆったりしたワンピースの上からでも、大きなお腹が分かる。
私は一度、店内を見回した。
禁煙席は反対側にある。
その女性が座っているのは、間違いなく喫煙席だった。
「ここ、喫煙席ですよ」
私はできるだけ落ち着いて答えた。
「禁煙席はあちらです」
すると女性の顔が険しくなった。
「でも、私は妊婦なんです」
「それは分かります」
「だったら、普通は消しませんか?」
まるで私が非常識なことをしているような言い方だった。
私はタバコを灰皿の上に置いた。
まだ火は消していない。
「禁煙席が別に用意されているのに、どうして喫煙席に座ったんですか?」
私が尋ねると、女性は唇を震わせた。
そして突然、目から涙をこぼした。
「ひどい……」
小さな声だった。
しかし、その一言で周囲の空気が変わった。
近くにいた客がこちらを見る。
離れた席からも視線を感じる。
事情を知らない人から見れば、喫煙者が妊婦を泣かせているようにしか見えない。
私は少し迷った。
ここで火を消せば、話はすぐ終わる。
だが、それでは最初から「私が悪かった」という形になる。
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください