半年ほど前から、夫のスリッパの裏だけが、毎朝どういうわけか湿っていることに気づいていた。雨の降っていない日でも同じで、最初は気のせいだと思っていた。
台所の掃き出し窓を確認すると、鍵がいつも少しだけ開いている。閉め忘れかと思って夫に聞いても、「え、ちゃんと閉めたと思うけど」と、あまり気にしていない様子だった。
不思議な状態がしばらく続いたある朝、私はいつもより十分早く目を覚ました。
身支度を整える夫を見送るふりをして、なんとなく窓の外へ目をやった。
夫は庭を横切り、隣の敷地との境目にある低い柵を、慣れた様子で静かに乗り越えた。向かった先は、一人暮らしをしている隣家の庭だった。
置いてあったホースを手に取り、迷いのない動きで花壇に水をまき始める。腕時計をちらりと確認しながら、決まって十五分ほどで作業を終えると、また同じように柵を越えて戻ってきた。
その間、隣に住む女性の姿はどこにも見えなかった。私は何も聞けないまま、いつも通り夫を送り出した。
気になって、その週末に隣家の様子をそれとなく見てみた。すると郵便受けに、宅配便の不在通知が何枚も溜まっているのに気づいた。
宛名を見ると、聞き覚えのある名前だった。
夫が大学時代にお世話になったという、恩師の名前だった。数年前に恩師が亡くなったあとも、その奥さんが一人であの家に暮らしていたはずだった。
夜、夫が帰宅してから、私は思い切って尋ねてみた。「毎朝、隣の庭に行ってるでしょう」。夫は少し驚いた顔をしたあと、観念したように静かに事情を話し始めた。
その奥さんは、半月ほど前に体調を崩し、しばらく入院しているのだという。退院後に楽しみにしている庭の花を枯らしたくないと、入院する前に夫へこっそり水やりを頼んでいたらしい。「大げさに話すことでもないと思って」と、夫は少し照れくさそうに言った。
恩師が亡くなったとき、夫は葬儀で「何かあれば力になります」と伝えていたのだという。
その約束を、誰にも言わずにずっと守り続けていたのだった。
数日後、退院した奥さんから、庭の花のお礼にと季節の野菜が届いた。夫は少し照れながら、それを受け取っていた。
濡れたスリッパの理由を知ってから、私は特に何も言わずにいる。ただ、朝の十五分だけ、夫の背中を少し違う目で見送るようになった。