父から電話があったのは、先月の日曜の夜だった。
「もう、この家を売って、一人で暮らそうと思う」
母が亡くなって12年、父はずっとこの家に一人で住んできた。今さら何を言い出すのか、私はすぐには理解できなかった。
「体調でも悪いの?」と聞くと、「違う、そうじゃない」とだけ返ってきた。
その後、実家を訪ねても、父はいつも通り台所に立ち、味噌汁を作っていた。
話し方も表情も、普段と変わらないように見えた。それなのに、「家を売る」という一点だけは、何度話しても譲らなかった。
気になることが、他にもあった。郵便受けには、見覚えのない女性の名前の入った年賀状が混ざっていた。父の携帯を見ると、毎晩8時ごろ、同じ番号から着信が残っていた。
母の四十九日以来、父がこんなふうに誰かとやり取りしている様子を見たことはなかった。正直、いい気持ちはしなかった。母が生きていた頃のことを思い出すと、複雑な気持ちにもなった。
それでも、父に直接聞く勇気は出なかった。もし答えを聞いて、自分が受け止めきれなかったらどうしようという不安もあった。
そんな日々が続いたある夜、実家で夕食をとっていると、父の方から切り出してきた。
「実はな」
湯呑みを両手で包みながら、父はしばらく黙っていた。
「もう十分、一人で頑張ったと思ってる。だから、これからのことを、ちゃんと話しておきたい」
父の口から出てきたのは、母を亡くしてからの12年間、どれだけ一人での生活が長く感じられていたかということだった。そして、数年前から知り合い、少しずつ支え合うようになった女性がいることも、初めて聞かされた。
「お前たちに言えなかったのは、母さんに悪い気がしていたからだ」
その言葉を聞いて、私はすぐには何も言えなかった。ただ、父がこの数年、ずっと一人で気持ちを抱えてきたことだけは、はっきりと伝わってきた。
すべてに納得できたわけではない。家を売るかどうかも、まだ結論は出ていない。それでも、父が自分の言葉で話してくれたことが、何より大きかった。
「一度、ちゃんとその人にも会わせてほしい」
私がそう言うと、父は少し驚いた顔をした後、小さく頷いた。
12年間、私は父のことを「一人で立派にやっている親」だとしか見ていなかった。本当は、その分だけ、ずっと寂しさを抱えていたのかもしれない。