父が亡くなったあとも、実家の離れにあるアトリエには何枚もの絵が残されていた。
父は生前、画家として活動していた。
母にとっても、私たち姉弟にとっても大切な形見だった。
ある日、弟の道治から突然、
「父さんの絵って、いくらくらいで売れる?」
とLINEが来た。
嫌な予感しかしなかった。
道治は昔から金遣いが荒く、その場しのぎで行動するところがあった。
しかも結婚してから、それはさらにひどくなっていた。
翌日、母に連絡すると、
「今日、道治と奥さんが来たの。絵を飾りたいっていうから何枚か渡したわよ」
と言う。
私は慌てた。
「昨日、道治から“いくらで売れる?”って聞かれたんだよ」
それでも母は落ち着いていた。
「心配しなくていいの。もう全部終わってるから」
数日後、実家へ帰った私はアトリエを見て言葉を失った。
鍵が開いている。
そして父の絵がほとんどなくなっていた。
インターホンの録画には、道治夫婦が何枚もの額を次々と車へ積み込む姿が残っていた。
「お母さん、全部持っていかれてる!」
だが母はまた、
「大丈夫」
と言った。
その数日後。
道治から泣きつくような連絡が来た。
借金を返すため、アトリエから持ち出した絵を買取店へ持っていったという。
ところが鑑定結果は、
「すべて偽物です」
だった。
父のサインもない。
本物そっくりに描かれた画像を印刷して額に入れただけだという。
私はすぐ母に確認した。
すると母は笑った。
「あれ、私が描いたものよ」
母は仕事でデジタルの背景画を描いていた。
趣味で父の作品を模写し、同じ大きさに印刷してアトリエへ飾っていたのだ。
しかも道治夫婦がそれを本物だと思い込んでいることも、母はすでに知っていた。
本物の作品は、とっくに別の安全な場所へ移してあった。
さらに父と縁のあった人たちにも事情を伝え、もし作品が市場へ持ち込まれたら分かるよう手を回していた。
だから母は何度も言っていたのだ。
「もう全部終わってるから」
道治は、父の形見を盗めば簡単に大金が入ると思っていた。
借金を返し、余れば遊べるとまで考えていた。
だが手にしていたのは、最初から父の作品ではなかった。
母が守ったのは、絵だけではない。
父が残したものを「売れば金になる」としか見なくなった息子に、これ以上好き勝手させないという一線だった。
その後、道治夫婦は借金と向き合い、自分たちで働いて返していくことになった。
私はようやく分かった。
あの日、母が怒らなかったのは、諦めていたからではない。
怒るより先に、
守るべきものを、すべて守り終えていたからだった。