婚約者の道也に合鍵を渡していたのは、結婚を控えていたからだ。
ある出張中、
「部屋に忘れ物をしたから入っていい?」
と連絡が来た。
私は了承した。
ただし1つだけ念を押した。
「母の着物が入っているタンスには絶対に触らないで」
亡くなった母の形見だったからだ。
ところが帰宅すると、1着だけなくなっていた。
問いただしても、最初は「知らない」と言う。
そこで私は、
「インターホンの録画を確認して、警察にも相談する」
と伝えた。
ようやく道也は白状した。
勝手に持ち出し、「カリン」という女性へ貸したという。
しかも彼は、その女性を自分の元彼女だと説明した。
それだけでも信じられなかった。
だが次の一言で、私は言葉を失った。
「カリンは背が低いから、裾を切って調整した」
私の身長は170cm。
母は154cmだった。
そもそも借り物、それも形見に勝手にハサミを入れること自体があり得ない。
さらに道也は、
「もうお前には着られないんだから、カリンにあげればいいだろ」
と言った。
私は答えた。
「だったら1500万円払って」
道也は笑った。
母の着物の多くは10万~30万円ほどだった。
しかし持ち出された1着だけは、著名な作家が手掛けた非常に高価なものだった。
私にとっては金額以前に母の形見。
それでも、道也が理解するには数字が必要だった。
ところが翌日、高校時代の友人から連絡が来た。
「あなたのお母さんの着物、うちの妹が持ってる」
妹の名前は――カリン。
急いで確認してもらうと、驚くことに着物は無傷だった。
裾など切られていない。
さらに分かったのは、カリンは道也の元恋人ではなかった。
接客業の店で働く彼女に、道也が一方的に好意を寄せ、成人式の話を聞いて勝手に着物を押しつけていたのだ。
カリン自身は着物の知識があり、
「これは高価すぎる。しかも成人式用の振袖ではない」
と不審に思い、姉へ相談していた。
道也が持ち出したのは訪問着だった。
母の形見は無事に戻った。
だからといって、婚約を続ける理由にはならなかった。
さらに調べると、道也は結婚費用の名目で私の祖母から150万円を借り、その時期にカリンのため店で高額な酒を入れていたことまで分かった。
私は婚約を破棄した。
結婚式のキャンセル料なども含め、以後の連絡は弁護士を通すことにした。
今回、母の着物は幸運にも戻ってきた。
でも私が取り戻したかったものは、着物だけではなかった。
「婚約者だから」「もうすぐ家族だから」と、自分の大切なものを勝手に扱う人を許さなくていい。
母の形見を守ったことで、私は自分自身の境界線も守ることができた。